LOGIN二時間目が終わったとき、ノートには板書の途中から、同じ言葉が二度書かれていた。
読み返しても、どこで書き間違えたのかよく分からない。私は消しゴムを持ったまま考え込み、隣の席の生徒が立ち上がる音で、ようやく授業が終わっていることに気づいた。窓から差す光はさっきと同じなのに、目の奥へ刺さるように感じられた。
「ひまり、保健室に行こう。さっきから教科書の同じところを見ているし、顔も赤いよ」
美緒が机の横へ来て、私のノートを覗いた。普段なら誤字を見つけて笑うところだが、今日は何も言わず、机に転がってい
夕飯の片づけが終わるまで、私は冷蔵庫を開けなかった。 正確には、開ける用事を作らないようにした。麦茶はまだあるし、食べ終わったカレーを保存するのは母がやっている。今あの扉に手をかけたら、菓子の箱を見たいだけだと、誰にでも分かってしまう。 その努力は、怜央さんのひと言で無駄になった。「もう出してあるぞ。少し待ったほうがおいしいと、店で言われたから」 振り返ると、調理台に白い箱が置かれていた。「別に、急かしてないけど」「時計と冷蔵庫を交互に見てたから」「食後、何分くらい空ければいいか考えてたの。体の都合もあるでしょう」 彼は反論せずに箱を開けた。言い訳を追及するより早く中身を見せたほうが静かになると思われたのかもしれない。悔しいけれど、その判断は正しかった。 中には、小さなチョコレートのケーキが二つ入っていた。上の面は艶やかで、薄く削ったチョコレートが端に寄せて飾られている。もう一つの紙袋から出てきたのは、白い糖衣のかかったレモンの焼き菓子だった。「こっちも今日、食べる? 日持ちはするから、残してもいいけど」「食べる。両方食べるって、さっき言った」「そうだったな。念のため」 私は取り皿を出しかけたが、怜央さんに先に席へ座るよう言われた。今日は自分が用意する番だそうだ。 母と和臣さんは、それぞれお風呂や明日の仕事の準備へ移っていた。母には先に焼き菓子を少し分けてあって、「感想は聞かれたら言うわね」と約束してもらっている。おいしいかどうかを確かめる前に、材料と焼き方の話が始まるのを防ぐためだった。 テーブルに皿が置かれると、私はケーキの小さな金色の台紙をそっと回した。「これ、お母さんのお店とは逆のほうにある店だよね。駅から少し歩くところ」「ああ。前に通ったとき、見かけたから」「昨日、本屋の帰りに寄ったの?」「そのつもりだったけど、先に菓子を買うと持ち歩くことになるから、一度場所を確かめて、本屋のあとでもう一回行った」 何でもないことのように言って、彼はポットを持ち上げた。カップへ紅茶が注がれる間、私は店の紙袋に印刷された小さな地図を
放課後レターが再開した月曜日、私は二時間目の授業中に、ノートへ「受付」と書いてしまった。 先生が黒板に書いたのは、どう見ても英単語だった。私の手元だけが勝手に別の仕事を始めている。慌てて消しゴムをかけたら、消したい文字より先に、その下の罫線が薄くなった。 朝、予定どおり受付が開いたことは確認してある。次に管理画面を見るのは、放課後の担当時間だ。 分かっているのに、鞄の中のスマートフォンが妙に気になった。通知が鳴ったわけでもない。ただ、そこにあると思うだけで、確かめる理由が次々に浮かんでくる。 表示がおかしくなっていたらどうしよう。送信できない人がいたら。逆に、誰からも何も届いていなかったら。 どちらにしても落ち着かないのだから、確認したところで私の心配は終わらない気がした。 昼休み、美緒は私の弁当箱を見て、箸を止めた。「ひまり、その卵焼き、さっきからずっと持ち上げたり戻したりしてるけど、何か相談してるの?」「してない。ちょっと考え事してただけ」「じゃあ食べてあげて。私の見てる限り、三回くらい口の手前で引き返してる」 言われてようやく、箸の先に卵焼きを挟んだままだと気づいた。口へ入れると、いつもの甘さがした。朝、母が少し焦がした端を自分の分へよけていたのを思い出して、ようやく食べ物のことを考えられた。「今日からだもんね。気になるのは分かるけど、午後も授業あるよ」「分かってる。午前中も、ちゃんと聞いてたし」「それなら、英語の宿題、どこまで?」 私は箸を置いた。 美緒は責める顔もせず、自分の鞄から手帳を取り出した。該当のページを開いてこちらへ向ける手つきが、妙に慣れている。「助かるけど、今の質問、分かっててしたでしょう」「うん。自信たっぷりだったから、少し確かめたくなった」 私は宿題の範囲を書き写し、そのまま手帳を閉じた。スマートフォンを出す口実まで一緒にしまったつもりだったのに、美緒は私の手元を見て、小さく笑った。「終わったら、話せることだけ教えてね。相談の中身じゃなくて、ちゃんと帰れたとか、お腹が空いたとか」「それ、感想が全部
瀬名先輩は、練習用の相談文を自分の前へ置くと、わざわざ椅子に浅く座り直した。「では、友達の誘いを断れなくて困っている高校生です。週末は家で寝たいんですけど、誘われると行くって答えてしまいます。断ったあと、次から自分だけ呼ばれなくなったら嫌なので」「そこまで役に入らなくても、普通に読んでもらえれば大丈夫です」「朝倉さん、それを言うと、俺が楽しんでるだけみたいになるでしょう」 九条先輩が記録用の紙から顔を上げた。「楽しんでいるのは事実でしょうけれど、続けてください。相談者役が途中で傷つかないように、とは練習項目にありませんから」 瀬名先輩は胸に手を当てたものの、すぐ私たちの返信案へ戻った。ふざけているようで、読む目は真剣だった。 窓の外から、運動部の掛け声が聞こえる。私は新しい紙の上にペンを置き、自分が書いた返事をもう一度読んだ。 誘われてうれしい気持ちと、休みたい気持ちは、両方あってもおかしくない。友達を嫌いになったわけではないのだから、自分を責めなくていい。 そこまでは、今も消したくなかった。「朝倉さんのを読むと、ほっとするんだよね。俺が薄情だから面倒に感じるわけじゃないんだって。ただ、そのあと友達から『土曜どうする?』って来たら、やっぱり行くって返すと思う」「休んでもいいって書いたんですけど、それだけだと足りないですか」「休んでいいのは分かった。でも、断って気まずくなるのと、ちょっと無理して出かけるのを比べたら、後者を選んじゃいそう」 私は、相談文の『次から誘われなくなるのが怖い』という部分へ線を引いた。 その気持ちを受け止めたつもりだった。でも、受け止めたあと、同じ場所へ返してしまっているのかもしれない。 瀬名先輩は、今度は怜央さんの案を持ち上げた。「こっちは、何て返したらいいか書いてあるから助かる。『予定を確認してから返事をする』っていうのも、すぐ使えそう。でも俺、友達を待たせるだけでも落ち着かないんだよね。あとで断るくらいなら、今、行くって言っちゃおうかなってなる」「そこまで即答する必要はない、と伝えたいんだけど」「うん。頭では分かるんだけ
再開のお知らせを書き終えたとき、私はまず、画面の右側にある細い棒を見た。 文章が長くなるほど短くなる、スクロールのための表示である。最初は親指くらいの長さがあったのに、今は小指の爪ほどしかない。途中から、再開を知らせるために書いているのか、これまでの自分を反省するために書いているのか、よく分からなくなっていた。 それでも、書いたことは全部、必要に思えた。 受付を止めたことへのお詫び。待ってくれた人へのお礼。運営方法を見直した理由。以前と同じ形では再開できないこと。できることと、できないこと。読み終えた人が不安にならないように付け加えた説明が、読む人を疲れさせる量になっている。 私は椅子の上で膝をそろえ直し、約束していた共有先へ原稿を送った。 送信の表示を確かめた途端、直したい言い回しが見つかった。けれど、今さらにらんでいても、送った文章は変わらない。私は画面を閉じ、机の端に置いた水を飲んだ。 返信が来たのは、夕飯を食べ終えて、食器を流しへ運んでいるときだった。 向かいで皿を重ねていた怜央さんが、私のスマートフォンが震えたのを見て口を開く。「原稿の確認、送った。今、少し話してもいいか」「いいけど、もしかして長かった?」「少し」「その『少し』、何行くらい削るつもりで言ってる?」 彼は返事をする前に、手にしていた皿を置いた。 その慎重さが、すでに答えだった。 ダイニングへ戻ると、母がテレビの音量を少し下げた。私たちの前にはノートパソコンが一台あるだけだったのに、通りがかった和臣さんが「会議?」と尋ねたので、私は慌てて首を横に振った。「原稿をちょっと見るだけです。今日は、もう長くやらないので」「じゃあ、僕がお茶をいれる間くらいかな」 そう言って台所へ向かった和臣さんの背中を見送り、私は画面を開いた。怜央さんが椅子を隣へ寄せたので、思わず自分の肘を引く。 学校では机を挟んで話すことが多い。横に並ぶだけで、同じ文章を見る姿勢が妙に窮屈になった。「まず、最初の一文は、このままでいいと思う」 彼が指したのは、『お待たせしました』から始まる文
月曜日の放課後、生徒会室の扉の前で、私は持ってきた資料の角をそろえた。 家を出る前にも確認したし、昼休みにも読み返した。紙の順番が勝手に変わるはずはないのに、もう一度確かめたくなる。いちばん上の案内文には、自分で書き込んだ赤い文字が、印刷された文章と同じくらい並んでいた。「入る前から、それだけ直してきたんだ」 背後から声をかけられて振り向くと、瀬名先輩が鍵の束を指に引っかけて立っていた。「はい。説明が分かりにくいところがあったので」「なるほど。会長も似たようなこと言ってたよ。今日は長くなりそうだから、お茶を先に用意しようかな」「長くするつもりはないんですけど」「二人とも、最初はそう言うんだよね」 否定しきれないまま、先に開けてもらった扉をくぐった。 窓際の席では九条先輩が書類を確認していて、その向かいに怜央さんが座っていた。制服の袖口から見える手首も、資料をめくる指も、土曜日にケーキを取り分けていたときと同じなのに、机と椅子が変わるだけで少し遠く見える。 それでも今日は、その距離をわざわざ広げなくていい。「失礼します。御影先輩、案内文の修正案を持ってきました」「ああ。こちらも、担当の分け方を少し整理した。先に案内文から確認しよう」 差し出された資料を受け取り、私は空いている席に座った。瀬名先輩がお茶を置いてくれたので礼を言うと、九条先輩が時計を確かめ、手元のペンを持ち直した。「では、今日決めるのは告知の内容と、試験運用の日程、担当ですね。途中で別の話になったら戻しますから、そのつもりでお願いします」「別の話って、主にどっちが始めるんですか」 つい尋ねると、九条先輩は私と怜央さんを順に見た。「今のところ、同じくらいです」 公平な判定に、瀬名先輩が楽しそうに笑った。私はお茶を飲む前に、最初の資料を机の中央へ置いた。 放課後レターを二週間だけ、受付範囲を絞って再開する。 その方針自体は、もう決まっている。今日は、それを利用する人へどう伝え、実際に誰が何をするかを詰めるための打ち合わせだった。 私は案内文の冒頭を指さした
土曜日の朝、私が自分の部屋を片づけている間に、怜央さんは玄関のスリッパを三回並べ直していた。 一度目は左右がそろっていなかったから、二度目は靴箱の扉に近すぎたから。そして三度目は、私が通りかかったときに理由を聞いたせいで、本人も説明するのを諦めた。「踏んで滑らない位置を考えてた」「美緒、普通に歩けるよ。玄関で難しいことはしないから」「分かってる。部屋の片づけは終わったのか?」 都合の悪い質問を返され、私は手にしていた漫画を背中へ回した。探していた巻は見つかったものの、その過程で別の箱を開けてしまい、部屋の床は朝より狭くなっている。「今、最後の調整をしてるところ」「それなら、玄関より自分の部屋を気にしたほうがいい」 正論を置いてリビングへ戻る背中に、私は小さく舌を出した。どうやら、普通にしていてほしいというお願いは、今のところ半分くらいしか届いていない。 午後、駅まで迎えに行くと、美緒は小さな紙袋を提げて改札から出てきた。中身は家族で食べてほしいという煎餅で、母の店が菓子を扱っているから迷った末、甘くないものにしたらしい。「お母さんが喜ぶと思う。仕事では甘いものばっかりだから、家だとしょっぱいもの食べたがるんだよね」「よかった。あと私、ちゃんと普通にするから。先輩が家にいるからって、変にかしこまったりしないし」 その言葉を信じて坂道を上ったのに、玄関で怜央さんが迎えに出た瞬間、美緒の背筋は見事に伸びた。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」「そんな挨拶、私の家で聞いたことないんだけど」「ちょっと待って。私も今、自分でびっくりした」 美緒は小声で答えたが、すぐ目の前にいる怜央さんには聞こえていたらしい。彼は笑いをこらえるように口元を引き締め、代わりに一歩横へよけた。「どうぞ、上がってください。荷物はこちらへ……いや、持ったままで大丈夫です。ひまり、先に案内してあげて」「美緒はお客様だけど、視察に来た人じゃないからね。あと、荷物をどこに置くかは、リビングに着いてから決めればいいと思う」 私が先に廊下へ上がる